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風雅、舞い - 第一章 予言と運命 (10)
 犬はのそのそ歩いていた。それでも、その体に比べて廊下が細いために窓ガラスを割りまくっていた。ときどき、まだ残っていた生徒が悲鳴を上げて逃げていくが、犬はそんな者には目もくれなかった。
 鼻をひくひくさせながら首を振る。あれーさっきは見つかったのに今度はどこ行ったのかなーととぼけた顔で考えているのかもしれない。
「やっほー」
 そののんきな声に犬は振り向く。雅樹はのんびりとした顔で手を振っていた。
「んじゃ」
 雅樹はダッシュした。しかも犬に向かって。犬は前足を振り上げるが、雅樹はその速度を落とさない。振り降ろされる鋭い爪を難なく躱し、そのまま大胆不敵に犬の脇を走り抜ける。犬は吠えつつ振り向き、教室と廊下の間の壁を破った。
「いーぬさーんこーちら、てーのなーるほーへ」
 有言実行、雅樹は手を叩き、犬は青筋立てて雅樹の方へと走っていく。当然犬の足と雅樹の足では雲泥の差がある――はずだった。
 だが、雅樹の足はとんでもなく速かった。もちろん差は縮まって来ていたが、雅樹本人は余裕しゃくしゃくの表情だった。
 犬は雅樹のすぐ後ろへと着き、大口を開けて飛びかかるが、ひょいと体を躱して雅樹は階段を降りていく。急ブレーキを掛けてめくれ上がる廊下のタイル、振動する床。犬は振り向き、コンクリートの冷たい壁を無理矢理降りていった。さすがにこの壁は固すぎて壊すことができなかった。
「ホントだわ、あいつ体自体が丈夫なわけじゃないんだな」
 雅樹はまたもや脇を向いて会話する。
「こっちか」
 その会話に促されて二階奥の特別教室へと向かっていた。犬もそれを追って走っていく。
 犬が階段を駆け下りて振り向いたその先には、また特別教室があった。雅樹はその中へと入り、犬は壁を無理矢理壊して中へと入った。
 部屋の中は一面銀色だった。無数のシンク――化学実験室にあったような汚いものではない――があり、その全ての蛇口がひねられていた。その部屋の窓側、一番角に雅樹と舞が立っていた。犬は二人を見つけ、その方を向いて吠えた。
「蒼炎」
 言葉と共に雅樹の右腕をちょろちょろとした炎が駆ける。
「用意はいいな?」
 命令しないでよ、舞はそう思いながらうなずいた。
 雅樹が指を弾く。青い炎が飛ぶ。それは犬とはまったくかけ離れた方向――部屋の天井へと飛んでいった。その方向には、無数のスプリンクラーがあった。
 水が噴き出した。天井から滴る水滴が円錐を描き、部屋を、犬を濡らした。
「どいて!」
 舞は雅樹を押しのけて、護符を手に取った。
「その内に秘める心を静めよ、無数に飛び散る無垢なる魂、手と手を取り合い硬く結びつき、一つの大いなる礎となれ!!」
 呪文を詠唱した瞬間、その時は何も起こらない。だが、水が噴き出す騒々しい中に、少しずつ異質な音が割り込んでくる。何かが打たれるような音か、ひびが入るような音か……部屋に掛かるもやも湿り気のあるものから乾いたものになっていく。
 犬はきょろきょろ見回すが、その異変には気づいていないようだった。犬は異変はないとみなして、二人を睨み付け、少しずつ近づいてきた。
「飛べ、撃ち抜け!!」
 太い注射針のような氷のかけらが四方から飛び、犬の体中に突き刺さった。悲痛な叫び声が学校全体に響きわたった。
「さらに、さらに! 無数の霧氷よ継なぎ合い一つと成りて偉大なる力と成れ!!」
 犬は体を振り回しその周りに突き刺さっていく氷の棘を振り払おうとするが、それは思うようには取れなかった。しかも、突き刺さっていく氷の棘は、矢から槍へとどんどん大きくなっていった。調理実習室は、まるで赤と青のエアブラシを掛けているようだった。
「えげつないな」
「あんたの作戦でしょ」
「俺は突き刺せなんて言ってないし、穂香もかわいそうだって言ってる」
「解ってるわよ! もう終わるから……」
 なんでこんなにいらついているのか……自分自身判らなかった。とにかく今は、目の前の問題を一つずつ解決していくのみだ。
 ふさふさの毛は、まるでハリネズミのように尖っていた。体中に突き刺さった氷の矢が互いにくっついて、犬の体をほぼ完全に覆っていた。犬はもう、動くこともままならなかった。
「全てよ、凍てつけ――時までも」
 蛇口も、スプリンクラーも、すでに凍り付き、水を放出していなかった。部屋中に霜が降り、巨大なオブジェクトがわずかにきしむ音が聞こえる他に何もない、本当に時が止まったかのような静けさが訪れていた。
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